大學 朱熹章句 2

 

大學之道在明明德、在親民、在止於至善。
1:明明德・・・・明徳を明らかにする。
2:親民・・・・・民を親(新)たにする。
3:止於至善・・・至善に止まる。
この段は、大学第一の所であり、この三ヵ条を大学肝要の三綱領という。
綱領とは、網の綱・衣の衿との心を意味する。
すべての事柄はこの三綱領を基本に据えて学問せよとの意味である。
それ、人は天地(陰陽)の正しき気を得て生まれておるので、
形・心・振舞い・みな天地(陰陽)の法則に則して理解することができる。
天地の法則は、常に万物を照らしているので、
これが曇るという事は異常な状態である。
人の明徳である仁義礼智の心は、天地の気を胎内に受けた時に已に備わっている。
この事は孟子第四に詳しく記載がある。
いかなる子供も、父母に対して親しみ慕う心を持っており
これは、孝の心が既に備わっているからである。
世間では、楠正成公の様に運つたなく、中途に死したる人を、ふびんに思う心があり、
平清盛公のような一生涯富貴栄華を遂げた人をも憎むといふことがある。
是は皆、人は善を尊み悪を賤しむ正しい心が有るが故である。
しかしながら、幼少より悪しき事に見慣れ、また、聞き慣れてしまうと、
利欲という捨てがたき物に馴染んでしまい、
さすがに明徳が生まれながらに備わっておっても、
其の徳は曇って隠れてしまう。誠に嘆かわしいものだ。
そこで、自身の仁義礼智の徳の曇りを取り除き、明らかにする為に磨く。
この事を、明徳を明らかにすというのだ。
さて、自身の徳が明らかになりたる上は、大なる仁の心をもって他の人にも其の徳を及ぼすべきである。
他人の旧く穢れた徳を、新しく清める。この事を、民を親(新)にすというのだ。
明君が上に立つ時は、下(しも)・万民の徳は新(あら)たまり、
恵みを受ける。
さて、明徳を明らかにする。・民を親(新)たにする。の二か条にて言い尽きたるようであるが、
善の場に止まる事が継続しなければ、まだまだ学問は完成の域には達していない。
至善に止まる。とは是をいうのだ。
止(とど)まるという「止」の字を良くわきまえて、知る必要がある。
例えば、往くべき所へ往かずして、中ほどに在るのは滞るというものである。
往くべき所へ往き遂げて、安座いたし動かない。
この事を、止まると言うのだ。
善とは、偏らぬ中庸の心であり、理の正しく、過ぎる事無く、
また不及(とどかぬ)でも無い。自身で感得されよ。
例えば、心が曇り徳が乏しいのは、貧しき人に似ている。明徳明らかなるは、富貴たる人の様である。
上に立つ人が、貧しく曇っている人の徳を、救い清める事は
まさしく仁心の成せる業ではないか。
然れども、心を善の至極なる場に止めなければ、
せっかくの徳行も名聞又は自身の為に偏ってしまう事は免れ難い。
こうなってしまっては、誠に恥ずかしい事ではないか。

ダイガクノミチハ・メイトクヲ・アキラカニスルニアリ、タミヲ・アラタニスルニアリ、シイゼンニ・トドマルニアリ
大學之道在明明德、在親民、在止於至善。


1:明明德・・・・明徳を明らかにする。
2:親民・・・・・民を親(新)たにする。
3:止於至善・・・至善に止まる。

この段は、大学第一の所であり、この三ヵ条を大学肝要の三綱領という。

綱領の意味は、網の綱・衣の衿であり、萬の理はここを本として引き上げるなり。

すべての事柄はこの三綱領を基本に据えて学問せよとの心である。


それ、人は天地(陰陽)の正しき気を得て生まれておるので、

形・心・振舞い・みな天地(陰陽)の法則を元に成り立っている。


天地の法則は、常に万物を照らしているので、

これが曇るという事は異常な状態であり、これを「変」と謂う。


人の明徳である仁義礼智の心は、天地の気を胎内に受けた時に已に備わっている。

この事は孟子に詳しく記載がある。

子供の時はいかなる者も、父母に対して親しみ慕う心を持っており

これは、孝の心が既に備わっているからではないか。


世間一般の人々にも、楠正成公の様に運つたなく、中途に死したる人を、ふびんに思ったり、

平清盛公のような一生涯富貴栄華を遂げた人をも憎むといふこと、

是は皆、人は善を尊み悪を賤しむ心が有るが故である。


しかしながら、幼少より悪しき事に見慣れ、また、聞き慣れてしまうと、

利欲という捨てがたき物に馴染んでしまい、

さすがに明徳ありながらも、其の徳は曇って隠れてしまう。

誠に嘆かわしいことだ。


そこで、自身の仁義礼智の徳の曇りを取り除き、明らかにする為に之を磨かねばならない。

この事を、明徳を明らかにす(明明徳)というのだ。


さて、自身の徳が明らかになりたる上は、

大なる仁の心をもって他の人にも其の徳を及ぼすべきである。


他人の旧く穢れた徳を、新しく清める。

この事を、民を親(新)にす(親民)というのだ。


明君が上に立つ時は、下(しも)・万民の徳は新(あら)たまり、

恵みを受ける。


さて、明徳を明らかにする。民を親(新)たにする。の二か条にて言い尽きたるようであるが、

善の場に止まる事を極め尽くさなければ、心入れ浅くしてまだまだ全うしたとは言えない。

至善に止まる(止於至善)とは是をいうのだ。

止(とど)まるという「止」の字を良くわきまえて、知る必要がある。


例えば、往くべき所へ往かずして、中ほどに在るのは滞るというものである。

往くべき所へ往き遂げて、安座いたして動かない。

この事を、止まると言うのだ。


善とは、偏らぬ中庸の心であり、理の正しく、過ぎる事無く、

また不及(とどかぬ)でも無い。自身で感得されよ。


例えば、心が曇り徳が乏しいのは、貧しき人に似ている。

明徳が明らかなるは、富貴な人の様である。

上に立つ人が、貧しく曇っている人の徳を、救い清める事は

まさしく仁心の成せる業ではないか。


然れども、心を善の至極なる場に止めなければ、

せっかくの徳行も名聞又は自身の為に偏ってしまう事は免れ難い。

こうなってしまっては、誠に恥ずかしい事ではないか。

 

平成庚寅年 雨水